ぽけっとパーク

真実告知体験談

ケースNo.14

中部ブロックのpommierです。
本日は小学校の行事があり、子どもたちと主人は遅れてくるため、この場に間に合うことができませんでした。
私だけ出席の真実告知で申し訳ありませんが、お話させていただきます。

私たち夫婦は結婚23年目の2013年4月に長女ポムちゃんと、そして2015年1月に長男ブラン君とご縁をいただきました。 
今年ポムちゃんは6歳、ブラン君は4歳になりました。
お陰さまで、かわいい子どもたちとの充実した日々を過ごさせていただいております。

子ども達がいなかった頃、大人4人家族で盛り上がる会話は飼っている犬の話しだけ、それ以外、いつもシンとしていました。それが今では、子ども達のバタバタと走る足音や笑い声や話し声が、いつも聞こえます。
23年間、悩み、もがいたことも、今ではさまざまな事を判断するために、自分たちには必要であった日々と受けとめています。

まずは子どもがいなかった頃のお話をさせていただきます。

私たち夫婦は、1990年に結婚しました。
夫婦ともに若かったため、結婚当初はすぐに妊娠できるものだと思い込んでいました。
ところが1年たっても妊娠する兆候もなかったため、同居している母から「自分も1度しか妊娠することができなかったので、早めに婦人科へかかった方がいいよ」と促され、しぶしぶ産婦人科へ通い始めたのがきっかけでした。

タイミング法や人工授精の治療法で8軒も病院をかえました。
今では思い出になりましたが、その間に通った大学病院で待ち時間7時間、診察5分なんて当たり前のようにありました。

また不妊症の原因でもあるからと卵管造影検査、そして子宮内膜症のオペをしましたが、勉強のため…と、医学生や看護学生さん達がずらりと並んだ前で、検査やオペをした時には、まるで自分がモルモットになった気持ちになり、そこまでして、子どもを産みたい理由はなんなのか???と、よく考えこむようになりました。

知人などから「畑が悪いのか、種が悪いのか」「作り方を教えてやろうか」と言われたり、 また自分より後に結婚した友人が、1年もすると子育てで忙しくなっている姿をみて、自分はなにをやっているんだろうと滅入り、どんどん辛くなっていきました。 一度は子宮なんてあるから、こんなことで悩まなければならないのだから、子宮を取ってしまおうと考えていた時期もありました。
そして結婚して10年経った頃、もう人工授精では妊娠することは出来ないと医師から告げられた事をきっかけに、体外受精に踏み切りました。

体外受精は期待して望んだのですが、妊娠することはできませんでした。
今考えると大したことではなかったのですが、妊娠出来なかったことで、すっかり気持ちがやさぐれてしまい、子どもなんてどうでもいい、この事から開放されたい!と主人の気持ちも考えず自分のやりたいことに専念しました。

ただそんな時期でも、どこかで子どもは?と言う思いがあり、ネットで子どもに関わるキーワードを検索していました。
特別養子縁組の事もネットで読んだりもしました。BPの前身である「パパス&ママス」のホームページも眺めて血縁がない子を育てるって、どんな気持ちなんだろう…と考えたりしていました。
しかし中断してきた治療が頭に何度も浮かび、本気で養子縁組について調べようとはしませんでした。

年齢も40歳近くなり主人と、このまま子どもの事を諦めると後悔してしまうという思いが強くなり不妊治療を再開しました。
再開後1回目で妊娠することができました。
しかし途中で流産してしまい、その後、暫く家に閉じこもっていましたが、いくら考えても堂々巡りで、このままでは前には進めないと気持ちを切り替え再び病院へ通いました。
その後、何度か体外受精を繰り返し2回目の妊娠をしました。
しかし、この時も成長が途中で止まってしまったため人工中絶と同じようにかき出されました。その時の記憶は今でも忘れられません。

その病院では当時、分娩室がオペ室の隣だったため自分がオペをしている隣の部屋から「おぎゃー!」と赤ちゃんが生まれる声がきこました。その声を半分朦朧とするオペ台の上で聞き、痛さと情けなさ、また赤ちゃんには無事に生まれてこれて良かった…という思いが湧いて泣いたことを思い出します。

その後もまだ諦めることが出来ず治療を続けましたが、治療結果も悪くなる一方で金銭と共に体力も限界になった頃、主人と特別養子縁組についてあらためて考え始めました。
血縁にこだわる必要がなぜあるのか。血縁なんてどれだけ人生に必要なのか?

またTVでは、児童虐待や乳児遺棄などの惨状が報道されるたびに、自分達が躊躇している間に救える命があったんじゃないのか!?というジレンマが血縁の有る無しよりも勝り、養子を迎える心積もりが出来てきました。

そして以前、特別養子縁組の民間斡旋団体のHPを思いだし、急いでネットを確認しました。
しかし、そのHPはみつけることが出来ずがっかりしましたが、名前は違うけれど年齢制限など内容が良く似ていて、他の団体ではあまり記載されていない縁組までの情報開示が詳しくされていたベビーポケットをみつけ、主人と、養親に なるための条件について何度も重ねて確認し合い、どんな子でも私たちの元へ来てくれるのであれば育てようと!決心しました。

両親へ養子縁組したいと話そうした 朝、NHKのニュースで「特別養子縁組」の特集が流れてきました。
取材されていたのがベビーぽけっとだったため、話しがしやすくなったうえ両親も同じ気持ちであったことが分かり、早速養親になるための申し込みをしました。

面接会に行くと、以前ネットで見ていた団体が、ベビーぽけっとの前身であった事を知った時は驚きました。
そして必ず私たちとご縁のある子と繋いでくれる会に出会えた!という嬉しさでいっぱいになりました。

面接後、1ヶ月足らずでマザーさんから該当連絡をいただいた時は、何をどうしようと焦るばかりでした。けれど、ずっと見るのも辛かったベビー用品を主人と一緒に選びに行った時には、嬉し涙をこらえながらの買い物でした。

駅の改札口で23年間待ち望んだ赤ちゃんをマザーさんが抱っこして連れて来てくださった時は、それまでの思いが溢れて人目を憚らず号泣したのが懐かしい思い出です。

お引渡しでマザーさんから「結婚して23年も子どもがいなかった夫婦はうちの会では初めてだよ!これまで辛かったでしょ!」「さあ もうお母さんだよ!ポムちゃんをよろしくね!」と私たちの辛かった記憶を吹き飛ばして下さったのと同時に、「書類の字がよじれているのは、実親さんと書類を交わす時、私が赤ちゃんを抱いていようか?と言っても、最後まで、この子を離そうとしなかったからだよ。本当は育てたかったんだね」と話してくださった時、養親の気持ちも実親さんの気持ちもそれぞれ汲んで伝えてくださっていることに、改めて慈悲深いベビーポケットにお願いして良かったと思いました。 

そして、その後ありがたいことに、2015年の1月にはブラン君とのご縁もいただきました。それはポムちゃんがまだ2歳になる前でした。
マザーさんがブラン君を抱っこしてうちに来た時には、不思議そうに雄大をみていました。 
マザーさんが帰る時には、ブラン君もマザーさんとバイバイ」
なんて言ってましたが、成長した今では喧嘩もするけれど仲のいい姉、弟です。

ポムちゃんが2歳になった年に、シンポジウムで実親さん家族が会いに来てくださいました。ポムちゃんの2つ上のお姉ちゃんにも会うことが出来、長い時間一緒に遊びました。しかし2歳では誰なのか全く理解出来なかったようです。

実親さんのご家族とポムちゃんの4人で撮った写真がアルバムに入っているので、ポムちゃんが時々見ることがありますが、あまり反応もなく直ぐにページをめくってしまっています。
無理に見せることはせず、ポムちゃんが見たいと思った時、いつでも写真を見る事ができるよう手の届く場所に置いて実親さんが会いに来てくれた事を感謝として受け止めてくれたらいいな…と思っています。

ポムちゃんは3歳から保育園に入園しました。
この頃には、
・お母さんはお腹の病気で赤ちゃんが出来なかったから、ポムちゃんはお母さんのお腹から生まれたのではないこと。
・ポムちゃんはTママのお腹から生まれたこと、Tママのおっぱいを飲んでたこと。
などは少しずつ話していました。
年少さんの頃は保育園生活に慣れる事が精一杯だったため、周りのお友達のママや保育士さんのお腹が大きくなっても全然気にならなかったようですが、4歳で保育園の生活も慣れて来た頃からママ達のお腹がおおきくなって暫くするとお腹はぺったんこ、そのかわりに赤ちゃんを抱っこしているのが気になり始めたらしく、よく布団に入ると「保育園のSちゃん、お姉ちゃんになったんだって、ママが赤ちゃん抱っこしてきた。」
「ポムちゃんはTママのお腹から生まれたんだよね?お母さんがお腹の病気だったから、ポムちゃん産めなかったんだよね?」と度々聞いてくるようになりました。

その都度、ポムちゃんが理解できる内容で話をしました。 
ポムちゃんは何度がそれを繰り返した、ある日、やはり同じ問答をしたあとに布団を被って泣き出した日がありました。
「どうして涙が出ちゃったの?」と聞きましたが「良く分からないけど涙が出ちゃった。」と言ったきり眠ってしまいました。なにか少し理解が進んだのだと思い、主人や両親にも、その時の状況を伝えておきました。

それから去年5歳を迎え我が家で、ベビーポケットの妊婦さんをお世話することになったため、お腹の大きなお姉ちゃんや生まれた赤ちゃんと会う機会が何度かありました。なかでも仲良しになったMお姉さんと赤ちゃんの事が気になったようで、赤ちゃんの名前は?どこへ行ったの?また赤ちゃんに会えるの?なぜMお姉さんといっしょにいないの?など質問されました。

赤ちゃんの名前はOくん。Oくんを待ってる家族のところへマザーさんがコウノトリさんになって運んでくれたよ。もちろんまたいつか会えるよ!と話しました。
「ふ~ん。赤ちゃんには会えるんだね!良かった♪絶対会いたい」と、その時はそれ以上聞いてきませんでした。数日経ってから「前にいたYお姉ちゃんの赤ちゃんはどこへ行ったの?今度会える?」と思い出したように時々聞いてきました。

同時に「ブランもマザーさんが連れて来てくれたから、お母さんじゃない人が産んでくれたんだよね?ブランのママは何て名前?どんな人?どこにいるの?」とも聞くことがあったので、その都度話しをしてきました。
ポムちゃんは私からそんな話しを聞くと「ブラン!ブランの産んでくれたママは、○ママちゃんだって!」とブラン君に言って聞かせている場面もありました。当時のブラン君はピンと来ないようで「○ママちゃんなんだそれー」と全然気にもとめていないようでした。

今年6歳になって、新しいアルバムを作っていた時「ポムちゃんはTママに産んで貰って、Tママのおっぱいも飲んだんだよね。お姉ちゃんもいるんだよね?2歳の時に会ったみたいだけど覚えてないから、また会いたいな。」と言うので、「ポムちゃんが会いたいなら、また会えるか聞いてみようね」と答えました。が…「でも恥ずかしいから、また会いたくなったら言うよ」「会いたいけど、会いたくない。会ってもどうしていいかわからないし。」との返事でした。
 
6歳になって、これまでの話しや出来事を繋ぎ合わせ、ポムちゃんなりに整理しているようです。とても感受性の強い子なので今後も心に寄り添いながら告知をしていこうと思っています。

変わってブラン君への真実告知は、3歳になる少し前から産んでくれたママは他にいる事を少しずつ伝えています。
今年4歳の誕生日を迎えました。保育園の年中さんになったばかりの頃は、ポムちゃんほど妊婦さんや赤ちゃんに興味を示していなかったのですが、ある晩、突然「お母さんがブランを産めなかったのは、なんでなの?なんの病気だったの?なんで雄大は違うママのお腹にいたの?そのママは今どこにいるの?なんでいっしょに住んでいないの?」
「ブランは赤ちゃんだった頃、苗字がちがかったんだよね?なんて苗字?また変わるの?なんで変えなきゃいけなかったの?」と矢継ぎ早に聞いてきました。

これまで姉の告知を、何となく聞いたり見たりもしていたので、それらも含めまとめて聞いてきたようです。
質問が一気にきて驚いてしまったのですが、一つづつ理解出来る範囲で答えました。
特に苗字について気になっていたようで、「もう苗字は変わらないんだね。」と念をおして聞いてきました。 

また夜、寝しなに「お母さん大好き」「ブラン、お母さんから生まれたかったな」というので「お母さんもそうしたかったけどね、ごめんね」と答えると、急に泣き出して「ごめんねって言葉が悲しい」と言って暫くしがみついて泣いていました。安易に「ごめんね」という言葉を使ってしまい反省しました。  

ブラン君は、まだまだ幼いなぁ…と思っていたのですが、もともと言葉のひとつひとつをよく考えて理解していく子なので、適当な返事はしてはいけないのだな…と、重く受け止めました。

ブランくんの実親さんは3歳まではアルバムも受け取って貰えていたのですが、今年はアルバムが戻って来てしまいました。 
今後はブランくんの様子をみながら、実親さんから貰った手紙や母子手帳などを見せながら、実親さんがお腹のなかで大事に育てて貰い、そして産んでくれたことを話して行こうと思っています。

その他、周囲の反応がありましたので参考までに。
ポムちゃんの同級生から子どもらしい反応がありました。
小学校では入学後1ヶ月間は学校まで親が迎えに行くことになっているため、ブランくんを連れて学校へ行った事がありました。
同級生の子がブラン君を じーっと 眺め、「似てない!全然似てない!」「似てないよ」と言い自分の母親にも「全然似てないんだよ!」と何度も訴えていました。
その同級生の男の子には、妹がいて良く似ていましたし、また近所のお家の兄弟は皆そっくりでしたから、きっと直感で素直に言ったのだと思います。

その子のお母さんには養子であることを前もって伝えてあったので、また同じような反応があるなら話しをしようと思っていたのですが、その後、似てないと言ってくることはありませんでした。 
子どもは本当に正直、思ったことはなんでも言うから、どんな時でも対応できるように、普段からいろいろ想定しておくことも大事だと思いました。 

ポムちゃんが保育園に入園した時にも養子であることは伝えましたが、園長先生からは「そう言われても、こちらはどうしていいのか分からない。」との返事でした。私は「本人にも告知はしているので、そう言った話しが出た場合には教えてください。」と伝えました。

小学校へ入学した際も、教頭先生と担任の先生に特別養子縁組で迎えていることを伝えました。
学校側からは、伝えて貰って良かったとのお話の他、現在は小さな学校ではあるけれど、様々な事情の子ども達も増えてきていているので、スクールカウンセラーもいます。気になることがありましたら、いつでも言ってください、と対応してくれました。

養子であることは、ひけらかして言うことではありませんが、要所要所で周りにも伝えることは、特別養子縁組があることを知って貰うのに大切だと実感しています。

ポムちゃんと縁組した際、ある年配の女性から、20歳すぎてから自分と弟が養子であったことを知ったというお話しを聞くことがありました。その内容からも告知の大切さを感じましたので、参考までにお話させていただきます。

その方の父親がなくなった時のお葬式で、母親から自分と弟は養子であることを聞かされたそうです。
始めは驚いたそうですが、自分たちを養子として迎えるまでの話しを聞いて仕方ない状況だったと思えたらしいのですが、弟さんは、『これまで一言も出自について話してくれなかったのは、自分たちを馬鹿にしているとしか思えない!産んでくれた母が気の毒だ。どんな母であっても、それを話すのが親じゃないのか!』
と、激怒して弟さんは、それ以降お母さんが病床についた時も会いにいかなかったそうです。

その方いわく弟さんは男だったから、余計に産んでくれた母親を思う気持ちが強かったのかもしれない。裏切られた気持ちだったらしい…と話してくれました。
また、養親には出自について、もっと早いうちから言って欲しかったと思う…としみじみ話してくれました。

そんな話しを聞き、それまで以上に、告知は、その人の人生も変えてしまう可能性があるからキチンと伝えなければならない、ベビーポケットのOBさん達が経験されていることからも、子どもが自分の出自を知ることは当然のことであって、子ども達がいつでも自分の出自について聞きやすい状態にしておくことが親の役目なんだと感じたお話でした。

これからの事も踏まえ真実告知の重要性を忘れず、今後も子ども達に寄り添い告知をすすめて行こうと思っています。
長い間、ご清聴いただきまして、ありがとうございました。

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