ぽけっとパーク

真実告知体験談

ケースNo.16

関西Bブロック29期たーとなーです。
今日はこのような場でお話しさせて頂くのが我が家でいいのかとも思いましたが、お付き合い下さい。
過去にもちょこちょこお話しさせてもらったりと重複する部分もありますがご了承下さい。
私達は3人の子供達とのステキなご縁がありました。
また主人自身も養子であり、血の繋がりのない兄と姉がいる3兄弟です。
普段生活していると何も思いませんがこうしてお話をさせて頂く為に人生を振り返ると色々あったなと感じます。
どこから話すのがいいかわからないぐらいに…
まずは私達夫婦が養子縁組へ進んだきっかけなのですが、入籍の3ヶ月前に主人に脳腫瘍が見つかりました。主人が25歳の時です。初めは若い男性によくあるタイプの物だと思うので治療は3ヶ月ぐらいになると思うと言われました。
近くの大学病院を紹介され翌日、向かったのですがその頃には意識が朦朧とし嘔吐し緊急入院の緊急手術と急速に変化していく状況について行くのがやっとでした。
緊急手術は脳に溜まった髄液を少しずつ外に出す為に頭にドレーンをつけるだけのものでしたが、術後には元気を取り戻していました。
その後、抗がん剤治療を1度した後に主治医から入籍前の私たちの状態を気にして精子保存のお話がありました。
検査で精子が残っていれば保存する事にしましたが、結果は既に残ってはおらずひとまず治療に専念しました。
この頃から私は治療が終わった後の不妊治療についてや、特別養子縁組について色々調べ始めました。
ベビーポケットの養親ブログを見つけて、すでにここがいいなと考えていたぐらいです。
しかし脳腫瘍が最初に予想していた腫瘍のタイプよりも悪性度の強い物が混じっていて5年生存率が50%をきっていて子供どうこうの話ではなくなっていました。
3ヶ月予想の入院は7ヶ月を超え、手術は17時間・放射線治療は脳に影響が出ない当てれる限りを当て・無菌状態の部屋で血液細胞の入れ替えをし、なんとか無事に退院できやっと入籍しました。
退院しても維持療法で定期的に抗がん剤治療をする為、精子が戻るのか不安な日々でした。
そんな中、再発また振り出しに戻り治療です。
この時の脳腫瘍は日本に30例あるかないかの珍しいタイプの脳腫瘍で手探り状態での治療でしたがスムーズに終わりました。
けれど維持療法として飲むタイプの抗がん剤を2年近くする事になり、正直焦りました。
抗がん剤が終わる2年後、そこから精子が戻るかもしれない5、6年後7、8年待っても戻る保証もないじゃー養子縁組でいいのではっと私はなったのですが、主人的には治療もせずに進んでいいものかと悩み脳外科の主治医の許可を得てマイクロテセをする事にしました。
とりあえず半年、ホルモン療法をして挑んだのですが脳腫瘍の事もあり全身麻酔でする事となり、かかりつけの不妊クリニックでは手術ができないので主治医の所属する大学病院でするはずが、手術日を決めに行ったら病院から許可がおりませんでした言われました。
脳腫瘍の影響で主人は全てのホルモンが作れずお薬で補っている状態なのですが術中に何か起こる可能性があるし、手術をしても見つかる可能性が1%以下の確率に命をかけるんですかと言われたんです。
その時はスタートラインにも立てなかったとショックでしたが、道が完全に無くなったのでその1ヶ月後には養子縁組に進めました。
でも資料請求をして資料を読んだ後、主人は1度躊躇します。
ベビーポケットは実母さんのケアも大切にしているので養子である主人からしたら少し複雑な部分があったようです。
それでも早く進みたい私の猛攻撃にあい1ヶ月後には面接へ申し込みました。
どこの団体にも条件で心身共に健康である事が書かれています。
抗がん剤を服用している私達でも可能なのか不安しかありませんでしたが、主治医の診断書もあるし見てても大丈夫そうだし、明日どうなるかわからないのは皆んな一緒と言って頂き合格でき、嬉しいことに合格から1週間後に該当まで頂けました。(現在、会では大病後は3年縁組ができません)
それから楽しく子育てをしながら過ごし3年が経った頃、憧れの田舎暮らしを始めました。
その2ヶ月後、3回目の脳腫瘍1度目と2度目の時とは違い子供がいる入院は大変なこともありましたが、癒されることもありました。
そして何より頑張る力を私達にくれます。
3度目の脳腫瘍は期間だけみると1、2ヶ月の入院と短かったのですが、腫瘍が見つかってから悪化していくのが猛スピードで日に日に弱っていきました。
しょっ中、起こる痙攣を抑える為にお薬を飲んでいたのですが今度はお薬の影響や腫瘍の影響で意識朦朧となる事が多くなり、飲まないといけないお薬の時、普段なら2分ぐらいで飲み終えるのに途中でウトウトしてしまい1時間とかかかります。
そんな時はあー君の声が聞こえる動画を耳元で流すと反応して起きて頑張って飲もうとしていたのが印象的です。
3回目の脳腫瘍では左半分に麻痺が出てほぼ眠っているか痙攣を起こしているか意思表示しようにも話せない寝たきり状態に再発から1ヶ月でなってしまい、もうこのまま良くならないかもと医師に告げられ覚悟もしました。
しかし、まさかの翌日に全員が驚くほどに意識が回復しテンション高めでお出迎えしてくれ、いい意味で力が抜けました。
抗がん剤が効いてくれたようでその後1ヶ月で退院となりました。
3回の脳腫瘍を経験していますが、腫瘍がある時は悪さされ麻痺が出たりもしますが、治ると幸いにも目に見える後遺症もなく過ごせています。
しかし3回目の脳腫瘍の治療後に難聴と軽い高次脳機能障害が出てしまいました。
小さなの子が話す言葉はまだはっきりもしていないし、主人が難聴と理解力が乏しくなったのが重なって息子と主人のコミュニケーションが難しくなってしまい、年中の頃には2人が衝突をする事が増えました。
お父さんの状況を話したら息子は理解してくれると、衝突をしたある日「お父さんは頭の病気で聞き間違ったり勘違いしちゃう事が多いからちょっとだけ我慢してくれない?」とお願いをしたら、「お父さんは大人やのになんで子供の俺だけが我慢しないとアカンの」と言われ、そうやな私が楽になろうと息子に甘えただけや、上手く2人のフォローしようと反省した事もあります。
しかしそんな衝突はあるものの家族3人で過ごす日々は楽しかったです。
3度目の脳腫瘍から3年が経とうとする頃、2人目は考えているかのお話がありました。
ちょうど話がくる直前にあー君に兄妹が欲しいと言われていたのでビックリしドキドキした事を今でも覚えています。
こんな自分達でも良ければ我が家は有難いですとお返事をさせてもらいました。
病気の事もあるし色々と考え配慮してくださり2人目、はーちゃんとのご縁を頂きました。
この時、あー君は5歳年中さんです。
お母さんが産むのではなく妹はやってくるとは理解していました。
また妊婦さんが赤ちゃんを産むと言うこともわかっていて、兄妹を欲しがっていた時、友達の妊婦のママさんが産んでくれないかなとも話していました。
そして待ちに待った兄妹に舞い上がり嬉しくて赤ちゃんがくんねんと幼稚園でお友達に話していました。
田舎の幼稚園でクラスも15人とかなので全く隠すつもりがない私達はあー君が養子である事、これから妹がやってくる事を保護者のLINEグループで説明し報告しました。
3分の1ぐらいのママには仲良くなった時に既に話しています。
LINE報告した1番の理由は自分の子供達へのフォローのお願いです。
幼稚園のお母さん達にも4人妊婦さんがいて、皆はお腹が大きいけど私はお腹が大きくなかったのに突然赤ちゃんがやってくるので不思議に思うと思ったからです。
そしてあー君自身が赤ちゃんが産まれるではなく来ると話していたので…
養子と言って説明してもいいし、上手く誤魔化してもいいしそれぞれのお子さんの状況で判断をお願いしました。
子供が大きくなってから兄妹ができる時は大人以外にも周りの子供への告知や対応も必要だと思います。
我が家の真実告知は改まってする物ではなく普通の会話で産んでくれた人がいる事を話し大きくなるにつれ本人が気になる事をふとした時に突然聞いてくるのでその都度答える感じです。
妹ができ嬉しく過ごしていましたが年長さんの頃、養子についてあー君なりに少しずつ理解し考える事もあったのか色々重なってあー君にはしんどい時期がありました。
はーちゃんの1歳のお誕生日に合わせて実母さん家族からプレゼントが届きました。
この時にプレゼントが自分の時より多い事を怒るだろうな…そして自分は産んでくれた人からもらった事がないのを気にするかな?と夫婦で話をしていました。
今は小さくて理解出来ないし我慢できないだろうから、ずるいと言われたら何か買ってあげようとなったのですが、プレゼントを見つけ誰からのと聞いてきたのですが、答えるふーんって言われるだけで怒る事もなく拍子抜けしました。
あれ?大丈夫やったと軽く受け止めていた私達でしたがあー君の中では色々あったようでこの事や、主人の難聴や高次脳機能障害の影響で勘違い聞き間違いから父子の衝突が増えたのも重なり約1ヶ月ほど大荒れとなります。
幼稚園でも荒れたみたいで、園の先生から何かありましたかと電話が入るほどです。
養子である事は伝えているので最近の出来事を話し園でも様子を見てフォローして下さる事になりました。
そんな時、父子で衝突した時にあー君が、「元のお家に行きたいわ」と言ったのです。
こんな家来たくてきたんちゃうとか思春期の親子喧嘩とかで言われるやろうなとか想像してたけど、まさか幼稚園の時に言われるとは思いませんでした。
ショックと言うよりは、こんなに早くそんな事言うのかという驚きが強かったです。
私達が思ってた以上に養子という事をあー君なりに考えていたんだなと思い知りました。
怒って勢いで言ってしまった感じは凄くあったのですが、落ち着いて2人で色々話をしました。
お父さんとお母さんはあー君が来てくれて凄く嬉しかった事
凄く凄く会えるのを楽しみにしていた事
あー君の事が大好きな事
これからもずっと皆んなで一緒に暮らしていきたい事を伝えました。
怒って、つい言ってしまったのかを聞いて、本当に産んでくれた人のお家に行きたいのかも聞いたのです。
が、むかついて言ってしまったけど言った後に悪い事をしたと思い泣きました。
こんな時は寄り添うだけで言わない方がいいのかもなのですが…
あー君は怒ってたんやな、しんどかったんやな、本当はそんな事思って言ってないんよな、それでもお父さんとお母さんはあー君の事が大好きやから、それを言われると悲しくなる、ずっと一緒に皆なで家族でいたいからと伝えました。
自分が養子である事を理解しだし、お父さんの病気で伝えたい事が伝わらないイライラを体験して色々が一気に重なった大変な時期でした。
それでも後々考えたらこの荒れた期間は2、3ヶ月で済んでるので短い様な気もします。
まだ小さいから、そんなに理解していないと勝手に思っていましたが私達が思ってる以上に受け止め、感じ、考えていたんだと言う事がわかりました。
それからは大きな衝突もなく過ごしています。
大きくなるにつれてあー君がお父さんの病気を理解し上手く流せているんだと思います。
また養子と言うことにも自分なりに色々考えている様で突然気になった事を聞いてくる事も増えました。
産んでくれたお母さんの名前は何?いくつで産んだのかな?お母さんのお友達?会った事はあるの?など私が運転をして助手席に座ってる時が多いです。
それぐらい我が家では改まってするものではありません。
最近では妹にはーちゃんも産んでくれた人が他に居てるんやで~と車で話していました。
言われた妹はまだまだわかってないので意味わからず聞いてましたが…
我が家ではコレもアリだと思っています。
お兄ちゃんがバラすと言う感じではなく、養子である事が我が家では普通だから出た会話だと思っています。親子だけではなく兄妹でも普通に話せたらいいなと。
そんな中、はーちゃんが2歳になる直前に3人目を考えてるかと電話がありました。
予想もしていない事で凄くビックリし夫婦でたくさん話し合いました。
3人目のお話があれば受けようと夫婦で決め返事をさせて貰ったら翌日には該当が出てまたまたビックリです!
だけど3番目のよーちゃんは退院したらそのまま乳児院に入った為、迎えるまでには時間があり落ち着いて準備が出来ました。
3人目はないと思っていたので全部捨ててしまったり、あげていたので準備をしなおしました。
あー君は1年生だし、兄妹が増えるのは2回目なのもあり、嬉しくってくる前からお友達に弟くんねんと大きな声で話していたそうですが同級生や先生も2回目なので周りも慣れた物です。
3人目は法律が変わってからだったので裁判は少し違う所もありましたがはーちゃんの時の調査官さんが定年退職したのに、産休の職員さんに変わり戻ってきていて、また担当となった為スムーズに終わりました。
私達は3人の子供達を迎えましたが、3人の産んでくれたお母さんの置かれている状況など、それぞれなので真実告知も様々です。
けれど根本的には告知を特別なものにしない、暗くしない、嘘はつかない、ドシっと構えると言う事だけをブレないようにしようと思っています。
私はもともとポジティブな方なのですが、主人の3度の脳腫瘍を経験しその度に更にポジティブに、なんとかなるの精神が強くなっている気がします。
また、養親の大先輩でもある主人のお父さんが私達が養子縁組へ進むと話した時に、お父さんの選んだ道が間違ってなかったんかなと養子である息子が養子縁組することで認められた気がすると言っていて、70歳ぐらいになってその境地かと思ったら益々、どっしりしとこうと思いました。
けれど主人は私と正反対の性格で毎回、裁判を凄く気にしていました。
2番目のはーちゃんの審判書が届いた時のお話です。
嬉しすぎて、その後の手続きの事がすっかり抜けていて、あー君にはーちゃんがコレで家族やと言ってて私がまだ終わってないでと訂正した時に何も考えず、主人がまだ家族ちゃうかったわって言ったのがあー君の中でショックが大きかったようで、言葉の選択を間違ったと主人は後悔してましたが遅く。。。
あー君と寝ている時に、突然 生まれ変わってもまた皆んなで家族がいいと言って少し涙ぐむ事がありそんな事考えてたんやとビックリしつつも、ホンマやな~また皆んなで家族になりたいな~と明るく返しました。
あー君はとりあえず真実告知の最初の試練を抜けた気がします。
下2人に関してはまだまだスタートにもたっていませんが、私達にも兄のあー君で告知を1度経験したのもあって気持ちに少し余裕もできた気がします。
告知繋がりで主人兄妹の話を少しさせてもらいます。
一回り離れた兄がいます。兄は3歳の頃に施設からやってきたので記憶がある状態でした。
6歳上の姉と主人は1歳半ごろなので記憶はありません。
姉が養子である事を知ったのは小学生の頃、兄と喧嘩をした時にお前はここの家の子じゃないと言われお婆ちゃんに確認したそうです。その後、お婆ちゃんがお母さんにその事を話しているのを見て確信したそうです。
主人は高校卒業後ぐらいに兄の友達との草野球の打ち上げで兄の友達で養子の人が居てて、その人が同じ養子やんなーと話しているのを聞き、帰りに兄に確認したそうです。
その時に兄から知った事は親には内緒にしとけと言われたようで、改まってきちんと話したりとかはなく皆な親からは告知されていない状態です。
主人が知った時、兄は既に結婚して家を出ていた姉の所に行き主人が知った経緯を話し兄妹会議が開かれたようですが…
そんな話を縁組する前から聞いていたのもあって早い段階での真実告知の大切さは感じていました。
その他にも兄は興信所に1度生みの親を探してもらう相談に行ったそうで、それには主人もついて行っていました。
そこで興信所の人に探せば見つかると思うけど、お母さんが今も生活に困っていて、たかられるかもしれない
パターンもあるけど探して大丈夫か確認されたそうです。
考えた結果、探さなかったそうですが、それを横で見ていた主人も自分の親を探すつもりは怖いようで探すつもりもないみたいです。
姉も生みの親には興味がないようです。
しかし数年前から自分が居た施設に毎月、必要な日用品などを届けることを始めています。
主人達3兄弟は皆な普通養子縁組で戸籍は繋がっているので親が亡くなった時には相続問題で連絡が入ります。
兄には連絡が入った事があり、姉と主人はまだないので生みの親もどこかで生きている事がわかります。
私の友達のお父さんにも養子の人が居ててその人は親が亡くなり相続問題でおじさんになってから会ったことのない兄弟から連絡が入り、その後は定期的に飲みに行く仲になったそうです。
我が家の子供達も大きくなり探して会いたいなら私は親や兄弟に会えばいいと思っています。
私も一緒に会ってみたいです。
成長するにつれて感じること、考えること、悩むことも変わってくると思いますがどんな時でも隣で寄り添えたらと思います。
まとまりのない内容となり、聞きにくかったかもしれませんがお付き合いありがとうございました。

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